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葬儀について

葬儀について

「早いこと決めなあかん!」とはわかってるんですけど・・・

まず、葬儀は、亡くなった故人のために必要なのか、
遺族のために必要なのか・・・?


理屈で考えると、死者には儀式は必要ないですよねー。


死者は、自分が死んだ後で遺族や友達が何をしてくれようと、
それを「ありがたいなー」と感じることはできないと思うんです。


とならば、
「葬儀は生きている者にとってのもの」と言うことができると思います。


しかし、多くの人は、たぶん僕と同じように
「ちゃんと葬儀をやらないと、死者は成仏できない」
と考えているのではないでしょうか。


となると、
死んだ人のためにも葬儀は必要やなと思ったりもします。


とどのつまり、よくよく考えてみると、
死者のためというのは結局は生者のためなのではないかと思うんです。


なぜなら、
「ちゃんと葬儀をしてやらないと、死者は成仏できない」
と考えているのは、今を生きている僕たちだからです。


死者はそんなことを思ってはいないでしょう。


てか、考えられないのが死者なんですもん。


だから、
「死者にとっては葬儀は必要ではなく生きている人のために葬儀が必要なんだ」
ということになります。


そこでもうひとつ、
僕たち送る側の人間の故人に対する感情です。


遺族は、ほとんど死者に対して愛情を持っています。
と,僕は思っています。


しかし、同時に、
死者に対する恐怖心もあったりします。


死者が「一人では寂しいから、誰か一緒にあの世へ行ってくれ・・・」
って聞こえたら少し引きます、というかこちらも事情があって困ってしまいます。


お化けになって、しょっちゅう出てこられても困ったりするでしょう。


たまにやったら、「ひさしぶり、どない?」って感じでしょうが・・・


葬儀は、「ご冥福」を祈り、「どうか迷わんと成仏してくれよ」
と、死者を平穏無事にあの世へ送りためだすための儀式なんです。


葬儀は、僕たちが死者に対する慕う気持ちと、
恐怖をうすれさせる緩衝材という、
二面の感情が混ざっていると思うんです。


で、「葬儀不要論」ですが,そんなこんなで、僕は、ちょっと違うかなーと思ってます。


これは、経験上でのことなんですけどね。


なので、
みなさんは「おれはそう思わんよ」をあえて書くとすると。


「遺族のために」って言うこともあると思うってことです。


ところで、本で読んだことがあるんですが、その本、題名忘れましたすみません。


たしか終末医療に取り組んでいる医師の本だったです。


作者が言うには、「死んでいく人は、必ず後悔している。」らしいです、
たとえば「ああしとけば良かった、ああせーへんかったからバチがあたったんや」とかです。


その本ではもっと具体的に30個ぐらいあったと思いますが...


その本を読んだとき、僕、たいがい当たってたんでゾッとしたのを覚えています。


「うわー、オヤジどうして欲しかったかなー、聴くの忘れてたなー」
とか後悔するんです。


で、住職が読経してくれたりすると、ちょっと心が安らぐんです。


残された人への視点です。


死後のことなんて誰にもはわかりません。


だって、死なんと分からんし、死んだら伝える術がないんですもん。


なので、故人を愛する人が生前を回想したり、
なんとか「ふんぎり」をつけて、
安心とまでは云わないまでも、なんとか希望やこれからを生きる力を見だすために
あるんちゃうかなーって思うんです。


となると、
遺族のために「葬儀は必要ない!」
とはいえんよなーと思うんです。


僕、満中陰志やお盆に遺族が集まって、
故人を偲ぶことってえーことやんって思います。


月命日に読経してもらうのも、えーやんって思います。


なので、先に書いたような刹那の葬儀ならともかく、
お寺さんとのつきあいも出来る範囲で続けたらえーなと思います。


個人的にですが、あくまでも葬儀って、遺族や生前の故人を
よく知る人が愛する人をなくし
感じる喪失感や凄然たる悲しみを
どどうやって乗り越えるという側面にこそあると思うんです。


もともと、葬儀って、
死んだ人の魂を鎮め、慰めるものだとされています。


亡き魂を供養するという文化が、
安定感のある精神をつくることになったんでしょう。


で、もしも、
これから経済的な理由とか、
刹那的な理由で葬儀をやめるとか、
できるだけ簡略化していったら、
日本人のよさ、精神的な安定感まで失くしてしまうような気がするんです。


日本には「葬式仏教」の異名があり、
日本では、葬儀はお坊さんがするものという慣行ができ上がっています。


日本において僧侶が葬儀にたずさわるようになったのは、
江戸時代に檀家制度が国策として民衆を支配したからなんです。


だから、僧侶側からの要求で葬儀を引き受けたわけではありません。


僕、僧侶の回し者ではないです、くれぐれも。


僕たちの先祖は、国に強要されて、
好むと好まざるとにかかわらず葬儀をしなければならなくなったのです。


なので、僕たちは何の疑いもなく、
なんとなく「ばーちゃんもしてたし」って具合で、
人が亡くなれば葬儀をするし、
年忌法要も僧侶を招いて勤めるのが、
当たり前のことだと思っているんです。


僕、前にも話しましたけど「浄土真宗」なんです。


多分、おおかたの皆と同じように
死ぬときは何となく心細いです。


あっちでね「どこへ行ったらよいかしら?」
と「道に迷う」と思うんです。


僕、とくに方向音痴ですから・・・


で、葬儀をしてもらえれば
阿弥陀如来が「お前はここへ行け」
と引導を渡してくれるらしいです。


とても助かります、だって死んでから困りますもん。


心配の種がひとつ減りました。


魔除けの刀や、三途の川を渡る旅装束もいらんらしいです。


僕、ファッション大好きです。


なので、死んだら「あのコーディネートでお棺にいれてや」
ってリクエストするつもりです。


すみません、ながながと書きすぎました。


結論は、エンディングノート
「葬儀」をするかしないかの自分の意思表示する。
で、えーんじゃないでしょうか。


あとは、自分の大切な残されたものに任せましょう。

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